一家で集まろう

なんてこと、義兄が言い出すか私が言い出すか

くらいで、我家の誰も望んでいませんでした。

 

むしろ、皆で集まるのは大変だから、それぞれでと

合流させてもらえませんでした。

 

誰も会いたがる人もいませんでした。

 

だから、はじめは私が集まれそうな機会があると

召集していたのですが、

そんな滅多にない機会も家族には大した意味はなく

欠席も当たり前。

 

だんだんと疲れてきて、

逆に私も嫌になってきました。

 

近くにいるから食事でも、と一度言われたきり

食事の機会などありません。

近くに来たら家に寄って、近くに行くこともないし

リアルに呼ばれたこともありません。

 

そういう建前をわからないといけないのは

頭ではわかっています。

 

その上、建前すらなくても、なぜか

気持ちはあるんだ

と想像しないと成り立たないんだということ。

 

親から言われるのです。

 

できなくても気持ちはあるのだ

 

と。

 

気持ちは表さないと見せないと伝わりません。

 

言葉にできなくても

 

視線で表情で

 

それができなくても身体の動きで

 

すべての生き物がそうして関わり合っている

のです。

 

できないこともあると思います。

それはしょうがないです。

でも、その結果を相手にわかってくれというのは

無理があります。

過去のこと、そうしたかったというのは

わかります。

今はできないのかもしれない。

じゃ未来は?

未来もないなら、

できなくても気持ちを伝え合うこともないなら

何もないことと同じです。

言い訳と美談、言い換えれば思いやりなんだと

思います。

何もなくても思い合えるのは共にした過去が

ベースにあるからです。

何もないところに思いやりの想像、それは

ただの空想、理想です。

 

親なら何もできない赤ちゃんの頃から見ているから

それができているのかもしれません。

当たり前の過去があります。

 

私は一番はじめに産まれたので他のきょうだいから

そのように思いやりを示されることなく

親もすぐに次々と産まれた下の子たち、

活発な下の子たちとそうではない私を分けて

育ててきて、思いやりという名の放ったらかしで

育ちました。

 

そこに新しい家族が増えたけど、

私は切り離されたまま。

喜ばしい家族たちの横で、

家族が増えるほどトラウマが襲いました。

 

これまではそれに蓋をして関わろうとしたり

何でもないような顔をしたりしてきましたが

関係性が変わらないことでさらに虚しさが増強。

疲れ切ってしまって、もう家族の話をしたり、

数時間共に時間を過ごすだけで発作で

涙が止まらなくなってしまうように。

 

もうこの家には関わることは不可能なのだ

思っていたところに

 

一家で集まろう

とこの家族が始まって40年、はじめての関わりが

親からあったのでした。

 

もう今更です。

人が働きかけた時には何とも思わず

私の限界を超えてそんなこと言われても。

そうやってきた、そう教えられてきた

それぞれがそうしたいと思っていない

単にこうなるとは思っていなかった

それなりにいいと思っていた

親が私の限界を見てこれはいかんとなり

なんとかし始めた。

これまで訴えてもしょうがないで済ませてきて。

私のため?

それに応える力はもう一人相撲で使ってきたのです。

もう家族は皆、それぞれの家庭を持ったし、

次に会うとしたら誰かの危篤か死んだ時という

状況を家族は何もせず作ってきたのです。

親の世話についても話し合ったりとかも

考えてきたけど考えていたのは自分だけで

親はそれぞれの子どもとの関係で

それがよければそれでよかったのです。

他のきょうだいが何を考えているのか

何も考えていないのか知らない、

でも親はそれでいいと言っている、

親は歳を取れば仲良くできると信じている、

誰も何もするつもりはない、自然に任せている、

私1人が何かをしてもどうにもならない、

私は私ができる分をしよう、

そう割り切るしかなかったのです。

 

私がなんとか貼った絆創膏の下の傷は

治らないまま。

今更、急激に剥がそうとするなんて、

私以外の家族にとっては問題ではないんだ、

私が家族の流れに合わせれば済む問題なんだ、

ベースは変わらないまま、

私の傷はそのままにまた絆創膏を貼って

何もなかったかのように愛想笑いして、

私の嘘の幸せ、もうトラウマを重ねて

傷を深めるために絆創膏を剥がしたり貼ったり

もう私には背負い切れないよ…

冠婚葬祭、残っているところだけに力を残すので

精一杯だよ。